テクラの福音 (京都の大殉教)

 

江戸時代前期、関西地方は信長の庇護(ひご)のもと、キリスト教を信仰する信者が多くいました。
京都に住む橋本太兵衛は、信長の孫、秀信に仕えた武士で、つまテクラとも熱心な信者でした。


今から390年前、将軍・徳川秀忠はキリシタン禁令を発布しました。
踏み絵を踏まない、改宗しないものは死罪といった、厳しい禁令です。


1619年7月8日。秀忠が禁教令を発布し、数日後、橋本の一家も捕らえられました。


おなかに赤ちゃんのいる母テクラと一緒に13歳のむすめカタリナ、12歳の息子トマス、8歳の息子フランシスコ
6歳の息子ペドロも牢に入れられました。

牢に捉えられると、改宗を強要されて、厳しい責め苦を与えられたりします。
それでも熱心な信者たちは、神様との誓いを守ろうとしました。



それを見て人道に重きを置いた京都所司代の板倉勝重は、こっそり女性や子供の信者を解放しました。
この時、テクラも解放され、子供たちと京都郊外の親類の家に預けられました。


京都での役目のために、将軍・徳川秀忠は伏見城に来ていました。
このとき、京都所司代・板倉勝重は、キリシタンたちをとりなすよう将軍に働きかけました。

しかし、自分の命令にも関わらず、キリシタンが京都にいると聞いた秀忠は、
命令無視に逆上し、獄中の信者も、自由にした信者もみな直ぐに火刑にするよう命じました。



京都所司代の役人は、さいしだけでも改宗して逃亡しろと説得しましたが、
母テクラは自らの意思で、子供たちと供に殉教することを望みました。
神と契約したテクラにとって、これが子供たちにも最善の方法だと思ったからです。


1619年10月6日、捕らえられた信者たちは、牛車に5、6人ずつ乗せられて
見せしめのために京都中を引きまわされました。
それでも53名の信者は、はじることなく声を合わせて祈り、賛美歌いました。


刑場に着くとテクラは、3歳になるルシアを腕に抱き、息子トマス、フランシスコと供に・・
そしてむすめカタリナと息子ペトロは、テクラの隣の十字架に架けられました。



京都所司代の板倉勝重は、処刑される際に、せめて長い苦しみを避けられるようにと、
薪を多く積み上げるように命じました。


そして沢山の人が囲む中、夕刻、六条河原に猛火があがります。
大きな炎は、しばらくの間、夕暮れの京都を照らし赤く染め上げました。


炎の間から、我が子の顔をさすり、涙を手でふいてやる母親の姿が垣間見られます。


熱くて泣きじゃくるわが子に、天国で再び会うだろうと誓い、最後まで子供たちを慰めました。

母テクラと子供たちは十字架の上で死を迎えました。



彼女の なきがらは 死んだ後もなお、幼いルシアの体を しっかりと抱いていたといわれます。